香港で見事に砕け散ったデビュー公演の翌日、ピースボートの客船がようやく香港に到着し、河村博司さんと高木太郎さんが合流しました。

私たちの時はロシア船籍の古い客船でした(笑)
私たちもピースボートの客船に乗り、香港からベトナムへと向かいました。外洋の荒波はかなりのもの、乗り物に酔いやすい私は、すぐにダウンしました。
船内ライブでは、演奏中に何度も船が大きく傾き、譜面台や様々な物がスーッと滑って行ったり、私たちも耐えきれずに何度もよろめいたり、コメディさながらにステージがスケートリンクになったかのようでした。
お昼頃に到着したベトナム・ダナンは、山の濃い緑と、海の青のコントラストが実に美しい街でした。
待望の陸地に上がり、ひととき船酔いの解消に努めながら、大きなマーケットを訪れたり、レストランでおいしいサテーを味わったりしたものの、体は酷暑にも参っていたのでしょう、夕方からは発熱と気管支炎で完全にダウンしてしまいました。
とはいえ、ステージに穴は開けられませんから、這いつくばるように出演しました。アジアらしい無機質な楽屋で、動けないほど具合が悪かったのは覚えていますが、演奏中の記憶はまったくありません。
それでも河村さんと太郎さんがいてくださったおかげで、香港よりはなんとかなったのだと思います。
その後、船はベトナムからフィリピンへ。マニラの公演会場は、スモーキーマウンテン近くの体育館でした。
(スモーキーマウンテンとは、かつてマニラ郊外にあった巨大なゴミ投棄所で、途方もなく積み重なったゴミの山から常に煙がくすぶり続けていたことからそう名付けられたとのこと。当時近隣には、ゴミ山から換金可能なものを探して生計を立てる人々の貧困地区があり、地元NPOの協力でこの地区の子どもたちのためのコンサートが企画されました)
会場のそばで車から降りると、こどもたちがすぐに集まってきました。伊丹英子さんや私を見て、当時大人気だったSpice Girlsみたいだ、と目を丸くしてわいわい騒ぎながら近づいてきました。
そして口々に、「荷物を運ぶからお金をちょうだい」と言うのです。
こどもたちの服はみんな汚れていて、靴を履いていないこどももいました。戸惑う私たちに現地のスタッフは、「ひとりにあげると不公平だし、キリがなくなるから」と、応対しないよう言いました。
リハーサルを終えると、出演前に食事が用意されました。現地のケンタッキーフライドチキンのようなものでしたが、お世辞にもおいしそうではありませんでした。
ランチボックスを手に、食べる気のしない私や、普段はお肉を食べない大熊さんの様子を、こどもたちが少し遠くからじっと見つめていました。
そうだ、こどもたちにあげよう。
ところがこれも不公平になり、奪い合いなどが起きて混乱を招くかもしれないから、もらった私たちがありがたく食べようということになりました。
私が仕方なく食べようとしているフライドチキンは、こどもたちにとってはごちそうです。こどもたちはまちがいなくおなかをすかせて、尚も私たちを見つめています。メンバーみんなで「いただきます」と手を合わせ、涙をこらえながら戴きました。
フィリピン公演では体調がやや回復したおかげで、演奏中の記憶も少し残っています。イベントには、地元出身のアイドルグループも出演し、黄色い声援が体育館中に響き渡っていました。Spice Girlsなモノノケサミットの演奏もとても喜ばれ、なかなかの歓声があがりまくっていたようにおもいます。
終演後、会場を出ると、すっかり興奮した様子のこどもたちが駆け寄ってきました。そしてまた、「荷物を運ばせて!」と口々に言いました。
でも今度は、「お金はいらないよ!お礼がしたいんだ!」と言って、こどもたちはこぞって私たちの荷物を持ち、隣りにピタリとくっつき、ニコニコと笑顔を見せながら運んでくれたのです。
私たちは音楽でひとときの楽しみを提供し、それを楽しんだこどもたちはそのお返しに荷物を運んでくれました。貨幣がなくとも、世界は成立したときでした。
こどもたちの瞳はあまりに美しく、笑顔はあまりにもまぶしく、何度も何度も繰り返し「ありがとう!」「またきてね!」と言いながら、私たちを見送ってくれました。
スモーキーマウンテンのこどもたちは、光を放つ宝石でした。それなのに、彼らは貨幣を所有していないだけで、その輝きは日々を生きる苦しみで曇らされていました。
私たち人間は本来、誰しもがこんなふうに、宝石のように美しく輝く尊い生き物なのだと、こどもたちに教わった思いで、バンドは帰国の途につきました。
私のチンドン太鼓歴、すなわちミュージシャン歴は、香港でデビューし、ベトナム、フィリピンを周る海外ツアーに参加したところから始まりました。強烈な体験でした。
当初は興味のなかったチンドン太鼓を始めたのは、海外に行きたいという気持ちがきっかけでした。楽器の虜になり、パッションをもって始め、少しずつ確実にチカラをつけていくのとは違いました。
素人だった私にとって、プロのこの現場は極めてハードルが高かったうえ、音楽界で最もリズムに厳しい場でした。いつ脱落しても無理はなかったのに、その後もチンドン太鼓の修練を積んでいけたのは、モノノケならではの魅力に満ちた音楽のおかげでした。
素晴らしい音楽はもうそれだけで、貨幣に換えられない価値とパワーがあることも実感したツアーでした。
小学生の頃、ブラスバンドで合奏してアンサンブルを追求する楽しみを知り、初めて観に行ったコンサートでは、ヴォーカリストを支えるバンドの素晴らしさに感動しました。
そして25歳になったこの年、今度は自分がバンドの一員として演奏する立場になったのです。それもいきなり、日本を代表するプロのバンドで…。
なかなかできない貴重な経験の連続からミュージシャンとしての人生がスタートしたことは、のちの私の活動に大きな影響を与えることになります。
とにもかくにも私は、極めて恵まれた場でデビューすることができました。モノノケサミットの皆さんに、重ねてお礼申し上げます!
物語は次につづきます。
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