どんな楽器も、1ヶ月半程度の練習で到達できるレベルには、限界があることでしょう。
私が始めることになったチンドン太鼓は、鉦、締め太鼓、鋲打ち太鼓の3つのパーツで成り立っています。

右利きの人は右手で、左利きの人は左手で鉦を叩き、もう一方の手で2つの太鼓をかわるがわる叩きます。
重力に従ってスティックを振りおろすドラムなどと違い、2つの太鼓は横向きや斜め上向きに叩くため、力の入れ具合にコツが要ります。
バチが打面に当たって出ただけの単なる物理的な音ではなく、音楽ならではのバイブレーションを響かせながら、気持ちの良いグルーヴで演奏しなければいけません。
当時の状況は、小学校に入った1ヶ月半後、社会人にならなければいけないようなものでしたから、かなり無理がありました。
ところが私には、いくつかの強みがありました。
ひとつは、すでにモノノケサミットの曲のすべてを知っていたこと。曲の構成やキメなどはばっちり頭に入っていました。
そして身近に、プロの音楽家である大熊さんだけでなく、チンドン屋さんの高田洋介さんもいらしたこと。チンドン太鼓を始めるには最適な環境が調っていたのです。
すくに高田さんに相談し、さっそく手解きをしてもらいました。

チンドン界の伊吹吾郎との異名も!
チンドン屋さんに入門することなく、バンドでいきなりチンドン太鼓を叩く人などいませんでした。富山のチンドンコンクールでは、チンドン界の様々なしきたりや事情を目の当たりにし、私の始め方はタブーなのではとも感じましたが、高田さんは私を応援してくださり、惜しみなく叩き方を教えてくれました。
3つめの強みは、長年のお箏のお稽古で得たもの。
3歳から始めたお箏のお稽古、幼児だった私は、お師匠さんの弾く姿と音、呼吸の間合いなどを、見よう見まねで覚えて身につけていきました。インプットしたお手本を自分で体現してアウトプットする術が自然と身についていたのです。
私はこれを、モノノケサミットのチンドン太鼓にも無意識のうちに活用しました。
うつみようこさんが叩くチンドン太鼓を何度も見ていたことで、演奏のイメージが頭の中にはっきりとありました。モノノケサミットの音源を繰り返し聴いて体に覚えさせ、イメージを自分で体現できるよう、ひたすら太鼓をからだに馴染ませたのです。
海外に行きたい気持ちから始めたチンドン太鼓は、なかなか思うように叩けませんでした。ですが必死に練習しながら、自分で音楽を奏でる喜びを、久しぶりに味わっていました。
練習期間の1ヶ月半はあっという間に経ち、遂に7月下旬。
モノノケサミットの香港・ベトナム・フィリピンツアーは、ピースボートの水先案内人としてのお仕事でした。
中川敬さん、伊丹英子さん、奧野真哉さん、河村博司さん、高木太郎さん、大熊さん、そして私の7人。初心者の私の演奏がグラついても、河村さんのベースと太郎さんの太鼓が支えてくれると、みんなが見込んで臨みました。
メンバーの大半は、飛行機で香港に降り立ち、ベトナム、フィリピンへはピースボートの船で移動、フィリピンからは飛行機で帰国という旅程でしたが、河村さんと太郎さんは、機材と共にひと足先に日本から船に乗って出発。
ところが……この船は途中、台風に行く手を阻まれてしまい、河村さんと太郎さんは、7月30日の香港公演に間に合わなくなったのです。
河村さんと太郎さんの不在はつまり、リズム隊は私のチンドン太鼓のみ…。私はもちろん、メンバーの皆さんも困り果てるなか、不安を抱えながら香港へ向かいました。
7月1日に返還されたばかりの香港は、大きな変革期を迎え、驚くほどパワーがみなぎっていました。初めて体験する香港の真夏の暑さはあまりに強烈で、言葉を失ったほどでした。
コンサートを主催してくれたのは、大熊さんの香港在住の友人で、黒鳥/Black Birdというバンドのリーダー、Lenny。

彼との再会に喜んだのも束の間、さっそくホールでリハーサル、そこからの数時間は悪夢のようでした。
たった1ヶ月半前、初めてチンドン太鼓をさわったのです。どんなに練習しても、プロの安定したグルーヴなど出せるわけがありません。初の海外公演ですから、メンバーの苛立ちは大いに募るばかり。とはいえ、スキルも経験値もない私には、ほかに何の策もありません。
リハーサルを終えてからも、容赦なくプレッシャーがかかります。いま思えば当然のこと。リズムの大黒柱が不在で、いるのは生まれたてのひよこのような私だけ。バンドの土台を支えられる人がいないのですから、これは大ピンチでした。
私は息抜きのフリをして、さりげなく会場から離れました。
完全に行き詰まった私は、今回ばかりは私にはできない、私が演奏をかき乱してモノノケサミットの音楽に傷をつけてしまうなら、私がいない編成で演奏してもらったほうがいい、そう判断して、建物の出口へと向かいました。
「無責任だと思われても仕方がない…できないのだから仕方がない…逃げよう」
心の余裕を失い、意を決して勢いよく外に出ると、そこは香港の真夏、屋外は絶句するほどの暑さでした。太陽も3割増しで照りつけるなか、一歩、二歩、三歩と歩いてすぐ、私はくるりと踵を返して、すぐに建物の中に戻りました。
「この暑さで死ぬ…!!」と思ったのです(笑)。
私は(大げさでなくほんとうに)命を守るため、ふたたび会場へ戻ることにしました。とてつもないプレッシャーと不安で押しつぶされそうでしたが、未知の暑さで異国で行き倒れるよりは、もう何があろうと生きて帰ろうと思い改めました。
たった5秒の逃亡未遂から帰ってきた私は、いま自分にできることを全力でやるしかないと覚悟を決めて、演奏に臨んだのです。
そのあとの、記念すべきデビュー公演の記憶はまったくありません。プレッシャーと闘いながら全力を尽くすのみでした。
打ち上げで、Lennyは私のデビューを祝い、労ってくれながら、彼がふるまってくれた上海蟹をたらふく食べ、Lennyを交えてみんなで撮ったプリクラに大笑いしたことは、いまでも覚えています。
もし、これが真夏の香港でなかったら、私は会場に戻らなかった。
人生は選択の連続です。節目においても、日常でも、自分が次に何をするか選択してきた結果が今の自分です。ですがこのとき、異国の地で熱く照りつける太陽のもとでは、私には他に選択肢はありませんでした。
真夏の香港の太陽が私の逃亡を阻止し、ステージへと押し戻してくれたから、今の私があるのです。こうして音楽人生を振り返ってみると、太陽にも導かれていたことに気付きました。
そしてもちろん、モノノケサミットでのデビューを導いてくれた大熊さん、丁寧な手解きをして力強く応援してくれた高田洋介さん、素人の私にチャンスを与えてくださったモノノケサミットの皆さんにこそ、心より感謝申し上げます。
私にとってチンドン太鼓は、世界を平和にするためのものです。チンドン太鼓奏者としての私は、香港で生まれました。平和な世界を心より祈りながら、物語は次へとつづきます。
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