1995年、新年を迎えてまもなく、日本は激震に見舞われました。阪神・淡路大震災です。
1月17日未明に起きた大地震の被害を、テレビは絶え間なく報道していました。その甚大な被害の様子に家族も衝撃を受け、きょうは外出を控えてほしい、と言われましたが、私はスタッフとして関わるクレズマー音楽劇のため、千葉から都心に出かける必要がありました。
当時、ポケベルは普及していましたが、現在のようにすぐに連絡がつく携帯電話はなかった時代です。ある日突然、人生に幕が降りることがあるのを痛感しながら、玄関先で「気をつけて」を繰り返す母たちに見送られ、出かけました。
一歩街なかに出ると、まるで何も起きていないかのように、一見、いつもの風景が広がっていました。ただ、見る側の心は大きく変わっていたことで、目の前の世界は幻影に見え、実に哲学的な思いばかりがめぐり続けました。
青山の街並みこそ、いつもと何も変わっていませんでした。片や前代未聞の大惨事が起きている一方で、目の前には華やかな街並み、もしかしたら夢なのかもしれないと思うほど、東京は別世界。このときの強烈な違和感が忘れられません。
それから1週間ほど経った1月25日、巻上さんのお誕生日に、クレズマー音楽劇は稽古初日を迎えました。本番は2月中旬、稽古期間が短いことに、演劇人だった私はとても驚いたものです(笑)。
出演者であり演奏もするベツニナンモクレズマーは、梅津和時さんをはじめとした錚々たるお顔ぶれで、総勢20名近くの大所帯でした。そのなかに、のちに私の音楽人生のキーパーソンとなる大熊ワタルさんや関島岳郎さん、中尾勘二さんたちもいらっしゃいました。
目の前で、日本初のクレズマー音楽劇が創られていくのを見つめながら、クレズマー音楽とイディッシュソングを全身で浴びた稽古期間は、極めて贅沢な時間でした。
たった1ヶ月前に初めて聴いたはずなのに、故郷に帰ってきたかのようにさえ感じたユダヤの響きは、大震災で激しく揺さぶられた私の心に、生きることの喜びを感じさせ、それはいかに奇跡であるかを教えてくれたかのようでした。
本番では、劇中で度々、大きな黒板を持って出る黒子のお役目も頂き、日本初のクレズマー音楽劇は大成功のうちに、無事に幕を下ろしました。
ちなみに、クレズマー音楽劇にすっかり心を奪われた私はその数ヶ月後、卒論のテーマに、「イディッシュ演劇」(東欧ユダヤの言語、イディッシュ語による演劇)を掲げることにしました。教授は、これまで誰も取り上げなかった珍しいテーマであることだけで高評価をくれました。イディッシュにはこんなご恩があるのです(笑)。

こうしてクレズマー音楽劇に関わったことは、私の人生において一二を争う大きな節目となり、このあとの人生が一気に勢いづいていきます。
1995年にクレズマーに出会い、イディッシュ演劇をテーマに卒論を書いた大学生が、それから20年後に経験するドラマは、なかでも特筆すべき展開です。どうぞお楽しみに。
祖父は気難しくはありましたが、孫の私をとてもかわいがってくれました。「なりたいものには何にでもなれるんだよ」と、私にたびたび言ってくれました。
母は、物心がついた頃から私に、「運の良い子!」と口癖のように言ってくれました。
父も祖母もそれぞれに、私が健やかに幸せに育つように、たくさんの言葉をかけてくれました。
私は家族の愛と祈りに満ちた言霊にも守られて育ったのに、長年ためこまれた反作用の力もはたらき、次第に家族の手を離れ、家族にとってはあまり好ましくないほうへと未来を切り拓いていきます。
阪神・淡路大震災が起きたのは、ちょうどその後の生き方を考えていたときでした。震災は私に、実にシンプルで明確な答えをもたらしました。
家族ではなく自分が納得できる人生を、家族が望むのではなく自分が望む人生を生きるべきだと、はっきりとわかったのです。
親不孝に思えるかもしれませんが、人間は、親や家族のために生きているわけではありません。自分自身のために生きているものです。
私が思う「自分自身のために生きる」とは、わがままに身勝手に生きることではなくて、自分が幸せに感じる、自分の長所や得意なことが、より活かされる生き方のことです。それがさらに誰かのために生きることにもつながるなら最高ですよね。
物語は次に続きます。
皆さんそれぞれが持ち合わせているご自分の長所が、この世で存分に活かせる日々でありますように✨
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